坪山豊(つぼやま ゆたか)。舟大工にして、その朗らかな人柄と広い知識、確かな歌唱力で、奄美では知らぬ者は居ないほどの実力派唄者である。元来派手なことが苦手な彼は、42歳のときに周りに推され渋々民謡大会に出場、一躍脚光を浴びた。そしてシマ唄の魅力に取りつかれると、その才能と実力が一気に開花。大会などで各賞を総ナメにするなど、輝かしい経歴を築き上げ、今や奄美シマ唄の第一人者的存在である。奄美を代表する新民謡「ワイド節」や「あやはぶら節」の作者としても有名。また過去に何人もの有名唄者を育成している。
今回は、講演などで上京された坪山さんに、ハードスケジュールの合間を縫ってお話を伺った。
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42歳にしてデビュー
唄者・坪山豊とは
――お会いできて光栄です。まずは坪山さんのプロフィールからお聞きしたいのですが。
坪山: 昭和47年に、名瀬の体育館ででしたでしょうか…、セントラル楽器と南海日日新聞とで開催した奄美民謡の大会がありまして。私はその頃はシマ唄はあまり好きじゃなかったんですが、従兄弟が南海日日の記者をやっておりまして、私には内緒でセントラル楽器に裏で話をしていたんですよ。で、周りから出場するようにとじわじわと攻められまして。「私みたいな者が民謡大会に出てもいいのか?」と言っていたのですが、友達に三線を弾かせて、とうとう出るハメになりました。
当日は私の周りには名人と呼ばれる人がいっぱいおりましたが、コンクールだって事は、後から聞かされたんです。そして見事合格しまして、それが始まりです。「私の唄くらいで、認めてくれるんだなぁ」と自信がつきましてね、その後は夢中になって勉強しました。
それから3年目にLP盤を出しました。鹿児島の大学の教授をしていらっしゃった小川ひさお先生が、録音してくださったんです。当時はレコードなんて少なかったんですよ。でもそこから、ぐぐーっと広まりました。そうするうちに、仲間やファンなどができ始めたんです。
大きな出来事と言えば、大阪の北部関西という所で第1回目の民謡大会に出演したことです。そして昭和61年のアメリカ建国110周年記念で日本の文化を紹介するという事で、築地俊造と西和美と3人でワシントンのスミソニアン博物館で歌ったことですね。海外は初めてでした。
それから沖縄の仲間達と一緒に沖縄サミット記念の芸能団に参加して、モスクワとパリとローマで歌いました。3ヶ所で27日間かかったんですけど、おかげ様で好評でして、モスクワでは指笛も飛び出しました。パリには今年の6月にも行ったんですよ。その間に、27カ国のミュージシャン達とも共演しました。日本では、行ってないのは佐賀県だけという事になっております。
――素晴らしいご活躍振りですね。今日も國學院大學で講演されてきたんですよね?
坪山: 私は、シマ唄を2、3曲歌えばいいんだ、とこう考えていたんですが、島唄を調べて行くうちに、すごーく興味を持ちましてね。私の祖父母は奄美じゃないんですが…。奄美の古いところ、文化なんかが盛り込まれていて、生活が唄の中に入っているんですよね。そうやって夢中になって調べていく内に、こんな年齢でも人前でしゃべるようになりました(笑)。
――初めて人前で歌った曲は何ですか?
坪山: カンツメ節という唄です。これで賞を取ったんですよ。
――その曲を選んだ理由と言うのは?
坪山: 私は宇検村(うけんそん)というところに住んでおりまして、「カンツメ物語※」の発祥の地なんですよ。それで、宇検村出身がこれ(カンツメ節)をやらないと、モグリだって言われるんじゃないかって。ところがそれがよかったんです。奄美の唄は賑やかにやってもしょうがない。発声も自分なりに工夫しましたら、それがウケましてね。セントラル楽器にはまだ出来てもいないレコードを買いに、何人も来たらしいんですよ。それから色んな人の援助を得て、今あるシマ唄をだいたいは歌えるようになったんですね。
※カンツメ物語
明治の初めころまで、奄美地方にはヤンチュという奴隷のような風習があった。そのヤンチュとして宇検村の名家に奉公していた、年の頃18,9歳の美しい娘カンツメは、山一つ隔てた集落の、三味線とシマ唄の得意な青年・岩加那と恋に落ちる。二人は、毎夜人目を忍んで、お互いの集落の間に位置する峠の山小屋で逢引をくりかえすようになる。しかし、そのことを奉公先の主人に知られてしまうと、彼女は女性として立ち直ることができないほどの、ひどい仕打ちをうけてしまう。その後カンツメはショックのあまり、峠の山小屋で自殺をはかってしまうのだった。しかしその事実を何も知らない岩加那は、夜になると、いつものように峠の山小屋へ訪れ、幸せそうに笑顔を浮かべるカンツメと寄り添いながら、遅くまでシマ唄を唄っていた。明け方近くになり、突如カンツメが姿を消したため、不思議に思った岩加那は、彼女の姿を捜しだす。そこで岩加那が目にしたものは、頭上で、首をつり、既に息絶えたカンツメの姿であった。
この悲恋の物語は実話であり、シマ唄の「カンツメ節」として今でも語り継がれている。
宇検村ではこの唄を唄うことは避けられているが、宇検村出身者の坪山豊氏は、カンツメの供養のためにと今でも唄いつづけている。
■朝日新聞のHP asahi.comの「be」にて、カンツメの記事が掲載されました。
坪山さんの記事もあります。
http://www.be.asahi.com/20070113/W21/20061222SHOD0049A.html
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