徳之島出身唄者の中でも、若手のホープとして脚光を浴びつつある幸野泰士(こうのたいし)。最近は地方遠征や伊仙小学校の授業にも引っ張り出されるなど、各方面で活躍中だ。3月初旬、徳之島と信州との交流イベントで上京した彼を直撃取材。幼い頃からのシマ唄との馴れ初めや、昨年発表した話題作『SANSHIRU』制作秘話まで、余すとこなく語ってもらった。
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初めまして、幸野泰士です!
――まずはプロフィールといいますか、自己紹介も兼ねて、シマ唄との出会いから聞かせてください。
幸野: シマ唄はウチの親父と爺ちゃんがやってて、普段の生活の中から聞こえてきたんです。遊びの一環ですね、始まりは。だから三味線を弾くようになったのも、特にこうしなさいってこともなくって、ごく自然に触り始めたんです。
――そうやって育っていく中で、近所にも友人が出来て「唄あしぃび」なんて事もあったんですか?
幸野: その頃は自分と同じ年頃の子は、唄はやってなかったんですよ。その頃のシマ唄の輪って、そこまで広くなかったんですね。最近の方が広がってますね。僕も大会なんかに出るようになってから、シマ唄教室の人と知り合ったり、唄仲間に出会えるようになったって感じなんです。
――じゃあ、幼少の頃はお父さんが帰ってくるのが楽しみだったんじゃないですか?
幸野: それが親父の三味線は高かったので、触るのが怖かったんですよ。だからいない時を狙って触ってました。(笑)
――(笑)お父さんのいい三味線を弾くのは、やはり嬉しかった?
幸野: それはあります。やっぱり音が違うんで、うまくなったというより優越感に浸れましたからね。
――そんな泰士くんが一番初めに手に入れた三味線というのは?

幸野: 親父が使ってたヤツです。親父が新しいのを買ったので、お下がりが回ってきて、それが最初ですね。
――お爺さん位の代だと、今よりもう少しシマ唄も盛んだったのでしょうね。
幸野: そうですね。爺ちゃんは昔から遊びというより、お祝いなんかで呼ばれて唄うという…なんだろう、プロではなくって娯楽の一環というか…。今みたいにステージではなく、お祝いというと、どこからともなく声が掛かって…という感じでした。唄をする人だからってあちこちに行くっていう仕事でもない…こういうのはどう説明したらよいのでしょうか…。

――確かに唄者の説明は難しいですね。でも奄美の文化や生活習慣という意味では、大切にしたい風習であると思います。さて、中学生や高校生になると、大抵は別の興味が芽生えたり、逆に本格的に三味線を弾こう!となったりすると思うのですが、泰士少年の場合は?
幸野: 実は中学三年生のときに、仲間とロックバンドをやろうという話になったんです。それで高校の3年間はずっとバンドをやっていたんですよ。
――へぇ〜、当然担当はギターですよね。
幸野: それがドラムだったんです。でも卒業となると、皆バラバラになってしまう。そこで1人でも出来るものは何だろうと考えたときに、三味線が残っていたんです。あぁ、自分が出来るものは三味線だって思い直して、本格的に始めたのはそこからなんです。だからちゃんとシマ唄を唄い始めたのは17〜18歳の頃なんです。それまではずっと(三味線を)弾いているだけだったんです。
――どなたか師匠の師事を仰いだりしたのでしょうか?
幸野: 色んな先生にお世話になっているんですけど、ずっと就いてとなると親父です。あちこちのイベントで、色んな先生と一緒になって、色んな技なんかを教えてもらったんですけど、基本的なことは全部親父から習いました。
――例えばどんな技があるんですか?
幸野: “コァ”っていうのがあるんですけど、指を引っ掛けて、ギターでいうとハンマリングオンなのかな?そういった技や使い方なんか。あんまり押さえないところを押さえたりとか、ちょっと説明しにくいですね。(笑)
――泰士くんの、現在使用している三味線について教えてください。
幸野: 専門学校を卒業した後奄美大島に行って、徳之島に帰ってから自分で働いて買ったのが、今の三味線です。福森堂の既製品なんですけど、竿も黒炭で一番気に入ってます。だいたい漆が塗ってあるものが多くて型も幾つかあるんですけど、僕のは塗ってない知念型というやつで、皮は人工張り。もう、かれこれ5年くらいの付き合いでしょうか。僕には漆を塗ってない方が、手にしっくり来ると言うか、持ち心地がいいと思っています。バチは基本的に竹です。アルミ製のパイプのタイプやべっ甲を組み合わせたものも使いますけど、竹が一番いい音がすると思います。でもどうしても竹は折れやすいので、交互に使っているんですけどね。
――初ステージの模様も聞かせてください。
幸野: ステージって程でもなかったんですけど、初めて人前でやったのは、当時老人介護施設で調理の仕事をやっていて、三味線を弾くってことで引っ張り出されたんです。まだ曲もろくすっぽ出来なかった頃なんですけど、とても喜んでもらえたんです。そこからですね。19歳の時でした。
――それが今では東京にもその名を轟かせ、あちこちから呼ばれる程に成長したというわけですね。東京での初ステージの思い出は何かありますか?
幸野: 初めての東京は、椿山荘なんです。
――第1回目の『奄美まるごといも〜れ祭り』ですね。そうでしたか!ご縁を感じます。その時の感想は?
幸野: いつもテレビのニュースやドラマで見ている東京だぁって、おのぼりさん感覚でした。興奮したのを覚えてます。
――そして徳之島と言えば、キーマン・丸野清氏の名前が挙がりますね。氏とのエピソードがあったら聞かせてください。
幸野: その椿山荘から帰ってしばらくたった時に、友人伝いでシマ唄をやる人はいないかって話が回ってきて、それからお付き合いが始まりました。今もかわいがってもらってます。でも厳しいときは厳しい人で、ある時イベントで、本番が近くなりピリピリしてきた際に、つい「ウン」って返事をしたら、ちゃんと「ハイ」って応えなさいって注意を受けました。僕は普段は友達感覚で接してるんですけど、そういう仕事の厳しさも教えてもらっています。
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