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我那覇美奈

デビュー10年目
変化した奄美という存在

 

 


 ――では我那覇さんのデビューからを振り返って聞かせてもらえませんか?

我那覇: 小学生の頃にTeens Music Festivalというコンテストに出場したんです。奄美は音楽がすごく盛んな島で、全部で40組くらい出場したんですよ。その奄美の大会で優勝して、鹿児島の県大会まで行ったんですけど、そのときのビデオが今のスタッフの手に渡って、「この歌ってる子を探せ」って、奄美まで来てくれたんです。そういう始まりでした。そのとき私は「唄が歌える!」って、すぐにでも東京に出て行きたかったんですけど、両親が「中学を卒業するまでは親元で」って許してもらえませんでした。でも逆に、中学時代を謳歌してから上京することができたので、今は親に感謝しています。

 ――15歳の少女にとって、初めての東京と奄美大島のギャップというのは?

我那覇: ありすぎて、逆にすぐ適応しました!もう希望しかないんですよ、15歳ですから。うわっ電車だ!とか、夜なのに明るい!とか(笑)。今だったら自然なコトじゃないと思うんですけど…だから子どもですよね。それがもう嬉しくって。それから1年くらいでデビューしましたから、3〜4年はそんな感じでしたね。都会に、こう…浮き足立ってたんでしょうね。

 ――ありますよね、そういう気持ちって…。

我那覇: だからデビューしたての頃は、あんまり奄美の話はしませんでした。自分の中では愛しているのに、飛び出してきた島、みたいな気持ちがどこかにあったんでしょうね。話し始めると、その気持ちをどう説明したらいいかわからなかったんです。だから音楽的にも奄美の色を特に出したくなくって、我那覇美奈という本名でやってたのに、「いや、そこはいいじゃないですか」って気分があったんでしょうね。なんか奄美と自分がどう距離をとっていいのか分からなかったというか。音楽業界の友達も少ない状態だったし、すごく自分っていうものがどういう風にいたらいいのかって、探していた時期でもありました。

 ――それから数年を経て、とうとう昨年末、奄美のASIVIで初のワンマンライブを行いましたね。

我那覇美奈我那覇: だからそんなに時間がかかっちゃったんでしょうね。普通はデビューしたらすぐやりますよね?でもその時のテンションじゃ、そんな気にもならなかったんですよ。その時は、錦を飾らなきゃって意識が強すぎたんですね。すごく稼いで、自分がライブハウスを作ってそこでやる、くらいじゃないといけないんじゃないかって、勝手に背負ってしまった部分があり過ぎたんだと思います。
でもその後、20歳ぐらいのときにハシケンさんとアジア国際音楽祭で会ったんですよ。山形の高原でライブをやるというものだったんですが、そこでハシケンさんがなんと『ワイド節』を歌い出したんです。最初は分かりませんでした。だってそんな事ってあるハズないって…。でも『ワイド節』だって分かったら、次はもう自分でも唄っていたんです。当時、沖縄の音楽をカバーしたりする人は多かったけど、奄美をフィーチャーする人は初めて見ました。なんでこの歌を!?って、不思議な人だなぁという印象だったんですけど、ハシケンさんの音楽はすごくカッコよかったんですよ。彼の中にはジャズやブラジルなど色々な音楽があって、そのミックスされた中に奄美の音楽が存在していて、それが素晴らしいなと思ったんです。
そこぐらいから奄美に対する気持ちが変わってきて、そんな時に(元)ちとせに会ったんですよ。とても仲良くなって、それで自分の中で生まれ育ったくせに遠かった奄美ってものが、ぐっと近くなったんです。ちとせが住んでいた所は、奄美でも私とはとても違う場所で、最初はそれがすごくうらやましかった。我那覇美奈『風、光る』だって、彼女が住んでいた所だと、話すことがたくさんあるじゃないですか!あまりにも奄美で。私の場合はシティガール(笑)だから…。だけど私の中にもいっぱい奄美の血が流れていて、シマ唄を耳にしながら育っていて。こういう友達が出来たことで、「ああ、全部奄美だ」と見つめ直す機会がたくさんできました。自分の中に奄美が存在している、素直に縁に身を任せて行ければいいんじゃないかな、と思って作ったアルバムが最新作『風、光る』なんですよ。

 ――聴かせていただきました。とてもナチュラルで、自由なアルバムですね。


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