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アメリカ支配

日本が敗北した後、同年9月2日に米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に置かれたが、降伏調印式の際に日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に、奄美諸島が「Northern Ryukyu(北部琉球)」と書かれていることを発見し、米国が奄美を日本から分割するつもりであることを悟り、鹿児島県所属であることを訴えて調印しなかった。米軍が譲歩し、鹿児島県であることを確認した後に降伏した。
終戦から半年後の1946年(昭和21年)2月2日、正式に日本からの行政分離が連合軍総司令部から発表され、米国民政府の命令により本土出身の幹部が公職から追放され本土に強制送還となった。空席となった役職には地元出身者が就任し、10月3日に臨時北部南西諸島政庁が成立した。1950年(昭和25年)11月25日に奄美群島民政府に改称。しかし知事が民選で選出され、日本復帰を公約に掲げた人物が知事に当選した為(他の民政府も同様)、不快を感じた米国民政府は権限の縮小を決意し、1952年(昭和27年)4月1日には首班が米国民政府任命である琉球中央政府を設立し、民政府の権限を縮小のち廃止させた。
それらの米国民政府の政治的動きや、沖縄戦で疲弊した沖縄本島への資金集中、本土との分離により換金作物や物産の販売経路の途絶などにより、経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきていた奄美の住民は不満を増大させた。分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名が14歳以上の住民の99.8%に達し、ガンジーの運動を真似て集落単位又は自治体単位でハンガーストライキを行い、小中学生が血判状を提出する事態も発生した。
1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約によって日本の主権が回復すると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美の統治を諦め、翌1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、残りの奄美諸島も1953年(昭和28年)12月25日に返還された。クリスマスであることから、米国政府は「日本へのプレゼント」と皮肉った。

この時期を「アメリカ世(あめりかゆ)」とも呼ぶ。


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