■榊原洋史 【アサギマダラの見た夢】
―回想録、奄美・沖縄への思いと軌跡―
vol.3 東京に咲いたユウナの花-I
■夏の扉は雷雨で
「スク(アイゴの子)はな。この時期、海の沖の方で、透明な袋に入っているんだ。それが雷で割れ、いっせいに岸へやってくるのさ」
島のおじいさんに聞いた話だ。
ここも、雷雨。激しく地を打つ雨。黒々とした路上を、水がはしる。白銀の冷たい火花がはじける。
その路を私は、歩く。
ぬれそぼった道路脇の草。もう自らの季節を終え、花芯のみ残すツツジの生け垣。そこに、朝鮮アサガオだろうか、細いつるをからませ花開いていた。
白地に、ふちがうす紅色のラッパ管。雨に打たれ小刻みに花弁を震わせている。
立ち止まる。かすかな砂ぼこりの香りと、濃厚な新緑のにおいを含んだ大気。
私は、何度この季節を迎えたことだろう。また、これから何度むかえるのだろう。
胸に軽くではあるが、あせりのようなものを感じながら、また歩き出す。
「いま私は、現在の暮らしを良しとして生きているだろうか」
この問いは、ここ半年あまり繰り返されているものである。むろん、こんなことを考えること自体が、満足しきれてない証拠であろう。
しかし、とくに不満があるというわけではない。そんな自分に対し、ときおり説得を試みる。
「人生は、選んでいくものだ。意識するしないは別として、少なくてもおまえは、いまの生き方を選んでいる。そのことを自覚しろ」
正面きって説けば、確かにそうだ。だが同時に「それは理屈だ」と言う自分にも気づく。強いて言えば、無難であることを選んでいるとは言えよう。しかし、それだけでは、満たされない思いが残る。
かつて私は、いくたびかに魂の充実を味わってきた。
その多くは徳之島時代にあり、島暮らしに踏み切るきっかけとなったのは、東京での「ゆうなの会」との出会いにある。そこで、私は、初めて「いま・ここ」に生きているという確かさに触れた。それが、さらなる人生のリアリティを求めての旅へと誘っていった。
■からっぽな自分
昭和53年に大学を卒業した私は、そのまま大学院へ進んだ。といっても順風満帆であったわけではない。前年は、ほとんど学校へも行かず、終日、せんべい布団にくるまって天井を眺め暮らしていた時期もあった。ちょうど今頃の季節で、3ヶ月ほども続いただろうか。体重も十数キロ減った。なにごとにも意欲が湧かず、ただぼんやりと時間を消費していた。
いま思えば、心身症の域に足を踏み込んでいたのであろう。街のにぎわいも絵そらごとのように見え、ただ呼吸のみしているといった状態だった。孤独感も、とうに失せていた。
そんな一時期をなんとかやり過ごし、秋から受験勉強を始めた。目的があってというよりも、このまま肩書きのない世界に出てしまうのが恐かったというのが、正直なところだ。
はだかのままの自分で勝負しようとか試してやろうなんて積極性は、まるでなかった。だから進学に望みを託し、自分の支えとした。だからなのか、我ながら感心するほど勉強した。
そのかいあって大学院の4名の定員に滑り込み、春を迎えた。専攻は、神道学だった。学部時代は、日本文学であったが、民俗学で卒業論文を書いたので、民俗宗教を専門にしようと思ったからだった。
その生活は楽しかった。知的刺激はあったし、なによりもステータス願望が満たされた。さっそく名刺を生協に注文し、國學院大学大学院文学研究科博士課程(前期)と、長々と刷り込んだ。
そして、それを見ては自己満足にひたっていた。これで、自分のからっぽさが覆い隠されたような気がしたからだった。
その頃、同じ科の先輩に鎌田東二がいたし、中沢新一も研究室に顔を出したりしていた。アルフレッド・シュッツの現象学から記号論、そして、神霊学まであった。小世帯ながら、刺激的な環境だったといえよう。そうした先輩たちの話に胸躍らせ、議論にまぜてもらうのは、わくわくする経験であった。
だが、彼らのすばらしさを知れば知るほど、研究の裏づけとなる語学力もフィールドワークの経験もなく、ただ読みかじりの知識をひけらかすだけの自分の底の浅さを思い知り、卑屈感のみが増していった。そこで奮起するだけの元気もなかった。そして、しだいに授業からも足が遠のいていった。
■俺たちのマツリ
そんな7月、敗れかかった1枚のポスターが、ふと目に入った。
それは、中央線高円寺駅前にある古書店「球陽書房」のガラス戸にあった。「ゆうなの会主催エイサー大会」とある。
エイサーは、沖縄本島の民俗行事で旧盆の頃、全島各地で催される。一種の太鼓踊りである。学部時代から、祭りを見て歩いていた私は、すぐに飛びついた。
会場は、中野区にある小学校の校庭であった。夏休み中でもありガランとした校舎の前に、人々はいた。しかし、パラパラといった感じだ。グラウンドの周りで、立ったり座ったりしている。あとはひと張りの日よけテントだけ。
私は、気負いこんできただけに拍子ぬけしてしまった。それでも鉄棒のところの砂場で、エイサーが始まるのを待った。
やがて、サンシン(三味線)の音に合わせて、エイサーの一隊が入場してきた。
大きなのぼり旗を先頭に、男たちがやってくる。頭には手巾(ティサージ)、足には脚絆を巻き、パーランク(片面張りの手太鼓)を打ち鳴らしながら、舞い進んでくる。
その後に女たちが、腰に手をあて軽く地を踏みつつ歩を進める。みんな若い。おそらく二十歳前後だろう。
そして、その顔つきが胸をうった。
ピンと張りつめた緊張感がみなぎっている。しかしそこには、輝きがあった。
「ヒーヤルグァ、ゆうなの会ぬ、遊(あし)び見しらな。エイヤ!サッサ!」
勇壮な掛け声とともにパーランクがうちとどろき、次の瞬間にはバチが天をさす。
ゼイがふられ、ゆらゆらと手が舞う。
サンシンの音に操られるように身体が交差し旋回する。
ういういしい女たちの澄んだ歌声。
それらは、けっしてうまいものとはいえなかったが、そんな客観的な評価を吹き飛ばすだけの熱気がほとばしっていた。
この若い同世代のウチナンチュ(沖縄出身者)たちとの出会いは私にとって、衝撃的なものであった。
まばらな観客の中で、誰にこびるわけでもなく、自らの存在と育ってきた文化を確かめるように地を踏み、舞い、声をそろえて歌う青年たち。からっぽな私の身体にも、彼らの命の喜び、充実感が流れこんできた。
以来、私は一年半あまり、彼らと、ほとんど寝食をともにするくらいの深いつながりをもつことになる。
この沖縄出身勤労青少年の集い「ゆうなの会」は、都内と川崎に東西南北4か所の支部をもち、各種の親睦行事を催していた。県人会とも一線を画し、スペースの維持運営いっさいを青年たち自身の手でおこなっていた。それには、それなりの理由と結成までのいきさつがあった。
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