■榊原洋史 【アサギマダラの見た夢】
―回想録、奄美・沖縄への思いと軌跡―
vol.3 東京に咲いたユウナの花-II
■東京に咲いた「ゆうなの花」
1972年、沖縄は日本へ返還された。敗戦によって、アメリカの統治下にあること約27年。その年月は本土の人間にとって、沖縄を異国の地としてしまった。
復帰直前に、ある雑誌が沖縄に関する知識を問うアンケート調査をした。すると、かなりの人が「沖縄の公用語は英語である」と答えたのである。それくらい縁遠い地となっていた。
しかし、沖縄の人たちにとっては、愛憎の念の違いはあっても、本土は、つねに身近な存在であった。その意識の差が、さまざまな悲喜劇を引き起こした。
復帰前から、パスポート持参で本土へ働きに行く人はいたが、やはり数に制限がある。その足かせがはずれたわけであるから、どっと海を渡る人間が増えた。おりしも、高度経済成長期で、中卒者に「金の卵」の名が冠せられていたころである。集団就職の旗に引率され、テレビでしか本土を見たことのない少年少女が、都会のコンクリートの上に立った。彼らのあとの歩みは、たぶんご想像いただけるであろう。
聞いていた話とあまりにも異なる待遇、言葉や習慣そして感覚の違いからくる誤解と同僚の嘲笑。「耐えよ」という方に無理があろう。
よって、沖縄出身者の自殺や犯罪が、新聞紙上を賑わせる日々が続いた。その中のひとつに「山口君事件」と「照屋さん事件」があった。
「山口君事件」とは、その頃、宮古島出身の山口という青年が、雇い主と争ったあげく工場に火を点け、自分も拘置所の中で首吊り自殺をしてしまったという事件である。
この放火事件を知った沖縄青年たちが、山口君のもらい下げに走りまわったが、その途中で彼は命を自ら絶ってしまった。救援に駆けつけた青年たちは、無力感にうちひしがれた。なぜなら他人事とは、とても思えなかったからである。
そして、本音で語り合え、さらには、こうした事態に追いつめられてしまう自分たちの沖縄とはなんであるかを共に考える場をつくることにした。それが「ゆうなの会」であった。最初から、たんなる親睦を超えたところに課題をおいていたのだ。
そして、ようやくスタートを切ったとき、第二の事件が起きた。「照屋さん事件」である。事件といっても加害者がいるわけではない。正月に自分の部屋で餓死したのである。都会のど真ん中で……。当時、彼女は20歳、美容師見習いだった。
正月が明けてから、コタツに入ったまま飢え死にしているのが発見された。むろん食料がなくて死んだのではない。孤独が彼女の心をさいなみ、自分を捨てさせたのだ。
「ゆうなの会」のメンバーは、その新聞記事を読み、泣いた。自分たちの集いの場の、すぐ近くの出来事だった。もう絶対そういう仲間を出すまいと、活動に力を入れた。
■ヤマトから沖縄を見る
こうした中で、エイサーは始まった。しかし、すんなりいったわけではない。メンバーの多くが、中学や高校を出てすぐに集団就職で上京してきているために、踊りを身につけていないのだ。
そこで、浜比嘉の型をもとにして、「ゆうなの会型」ともいうべきフリをつくり出した。あとから考えれば、初期のメンバーたちが、それぞれの出身地の型を身につけていなかったというのは、返って幸いだったかもしれない。
というのは、エイサーの型は地域差が大きすぎるうえに地域の誇りがからんでくるので、へたに知っていると、対立を起こす可能性があったからだ。
こうして型を考えたり、衣装を縫ったり、小道具を作ったりしながら、ふるさと沖縄のことや自分たちの置かれている立場などについて語り合った。それは、やがて沖縄や自分たちを取り巻く現状を客観的に見つめる眼につながっていった。
沖縄にいることには、耳にするのも嫌だったサンシンの音に心引かれる自分を知り、ウチナンチュであることを自覚する青年たちも多かった。
沖縄には、生活舞台としての村(シマ)はあっても、沖縄県人という単位での身内意識は希薄である。
なぜなら、言葉ひとつとっても、同じ県内の本島と宮古や八重山と比べたとき、東北弁と薩摩弁くらいのへだたりがあるからだ。生活習慣もしかりである。
よって、青年たちは、本土(ヤマト)に来て、はじめて沖縄を意識したといってよい。それも、身体で、じかに思い知らされた。自分たちは、いったい何者なのか。そうした問いが、彼らの眼を沖縄の歴史と文化へ向けさせた。
そして、そこに見たのは、豊かな自然とこまやかな人情であり、同時に、それらを踏みにじる日本とアメリカの政治の実態であった。オキナワ(ウチナー)という語感は、ここから生まれた。
「ゆうなの会」は、そのオキナワを唯一のきずなとし、それを見つめる場としてあった。といっても、特別なことをしていたわけではない。
日曜日に、みんなでする清掃のアルバイトと会費で、スペースを維持し、そこで定例会をはじめ沖縄ソバを食べる会やハイキング、そして「語らびやウチナー」の開催など、各種の親睦行事をおこなっていたのである。
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