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■榊原洋史 【アサギマダラの見た夢】


―回想録、奄美・沖縄への思いと軌跡―


vol.3 東京に咲いたユウナの花-III

■喜納昌吉と沖縄

 与那国ぬ島に渡て
 東崎(あがりざち)登て見りば
 あん美(ちゅら)さ波ぬ
 花になゆさ
 情き深き 島ぬ 心あらわす 波ぬ花
 いちまでん いちまでん ながみぶさ
                                   歌「東崎」

 オキナワを語ろうとするとき、喜納昌吉の存在をぬきに話すことはできない。昌吉は、青年たちの言うにいわれぬ思いを、歌として表してくれた人だからだ。
 「ゆうなの会」関係の催しには、必ずといってよいほど、昌吉の姿があった。そして、「島小ソング」を歌った。

 心や捨てんなよー ホーイ
 情きや忘しんなよー ホーイ
 我んねー島小(しまぐわー)

 彼は、叫ぶように歌いあげる。
 みんなこぶしを突き上げ、声を合わせ応えた。熱狂と陶酔。それは表現するとしたら、ウチナンチュとしての血をわきたたせたというほかないだろう。
 だが……。
 当時の昌吉は、せわしくうつろな本土の生活を揶揄(やゆ)し、沖縄の現状を嘆き、かつての沖縄を礼賛した。
 それはそれで、インパクトを持っていたが、私の中にはなにか空疎な満たされないものが残った。と同時に、ひょっとしたら昌吉自身も、そう感じていたのではないだろうかとも思った。
 上演の前後に見かける昌吉は、澄んだ眼に気弱な光をただよわせていた。それは、ときとしてイラだちに変わり、また、悲しげに沈んだ。また、実際にさまざまなトラブルを引き起こしていた。うわさでは、チャンプルズも解体寸前の状態だったらしい。
 ちなみに私は、昌吉の歌の中では、先にあげた「東崎」のような叙情的なものが好きだ。それと「花」、昌吉27歳のときの作である。
 やはり、その頃、どこかの会場を歩いているときに、背後から聞こえてきた「花」を耳にし思わず動けなくなってしまった覚えがある。その喜納友子さんの伸びやかなボーカルは、耳を打ち、さらに身体の隅々にまでしみ渡っていった。

 川は流れて どこどこ行くの
 人も流れて どこどこ行くの
 そんな流れがつくころには
 花として 花として 咲かせてあげたい
 泣きなさい 笑いなさい
 いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
                          「すべての人の心に花を」

 昌吉は、この曲を収めたアルバムを1980年に発表した。その名も『ブラッド・ライン』だ。この題名からも昌吉の沖縄の血に対するこだわりが感じられよう。
 沖縄音楽界の大御所、喜納昌永の長男として生まれ、幼いころから琉球晋階のたゆやかな旋律に包まれ育った昌吉にとって、思春期を迎え自立の心が芽生えるとともに沖縄(ウチナー)は、宿命的な課題となっていったに違いない。
 17歳にして「ハイサイおじさん」を作詞作曲し、全国的なヒットを放ってからはなおさらであろう。当時は、本土復帰間もないころであり、周囲からも「沖縄的なるもの」への見解を期待され、彼自身も、その期待に応えようとしていたことは想像に難くない。
 それが、かつての沖縄(と思われているもの)を賛美し、返す刀で本土と現在の沖縄を切るというスタイルを生んだ。ひとことで言えば「本土はダメ、沖縄はマル」または「今の沖縄はダメ、昔の沖縄はマル」といった単純な断定のしかたである。
 むろん、そのすべてを否定するものではない。なぜなら、まず自分たちの違和感を表明するためには比較が必要だし、スローガンはシンプルでないと訴える力が弱くなってしまうからだ。だが、そうした対立構造による自己認知のしかたには、自分で自分の存在を認めきれない不確かさが、いつも伴っている。
 昌吉は、そうした自分のもろさ危うさを知ってか知らずか、沖縄のアイデンティティ確立を訴えるグループには、積極的にかかわっていった。「ゆうなの会」も、そのひとつであったであろう。
 ほかにも金武湾のCTS(石油備蓄基地)反対闘争をはじめ、徳之島の核燃料再処理工場問題などさまざまな住民運動に顔を出していたが、自分の意思で参加しているというよりも、対外的なイメージにそって、いやおうなく動いているという感じであった。
 しかし、その過程で安里清信さんや大城はまさんなど、真に沖縄の生活実感の中から、人間として失ってはならぬものを守るという立場から反対運動をしている人たちとも出会い、自らの空虚さを埋めていったようだ。
 その軌跡は、私の道とも重なっていく。やがて、彼はネパールやインドへ足を向けるようになり、いつしかバグワン・ラジニーシのサヤニシンとなっていた。
 後年になって、昌吉は、再び精力的な演奏活動を始め、『祭』や『ニライカナイ』といったアルバムを、立て続けに出した。もっと正確にいえば、「花」や「東崎」のような昌吉の叙情的な部分が前面に出てきたと見るべきであろう。(どこか悟りすまして、説教くさいものもあるが……)
 沖縄に対する思いも、澄んだ自然なものになってきている。

 沖縄ぬ姿 求めてい 我ね旅さしが
             ああ くぬ沖縄 くまどうやたる
 忘らりみ 忘らりみ 命ぬ香ばさ
             ニルジャリーニ ニルジャリーニ
(ウチナーの姿を探して、私は旅をしてきたが、ああここにあったよ。
 忘れてはいけない、いま生きていることの尊さを。

 聖なる川よ、聖なる川よ)
                                「流れるままに」 

 こうした考え方は、むろんすべてが彼のオリジナルというわけではない。ラジニーシに触れるうちに仕入れた部分もたぶん多いだろう。
 だが、言葉にならなくても感性(ウチナンチュとしての)としては、本来持っていたはずだ。
 沖縄の世界観では、すべての源はニライカナイにあり、やがてそこへ還っていくとされている。人の一生もまた、そこから流れ出て還っていく一筋の川なのだ。
 その構造はすでに「花」に見られる。また昨年、「花」が、本人の意図することなく独り歩きし、15年の歳月を経てヒットしたという事実に、偶然といえない時代の潮流が感じられる。それも、インドネシアなど東南アジア各地を飛び火しながら、再上陸したという裏話を知ればなおさらである。



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榊原洋史
アサギマダラの見た夢

著者プロフィール
榊原 洋史 (さかきばら ひろし)

1955年生まれ。愛知県新城市出身。国学院大学文学部卒業。同大学院中退。大学院の途中で「南西諸島の神観念」をテーマにしたフィールドワークを志し、奄美諸島のひとつ徳之島に渡り、4年間を過ごす。次の2年間は沖縄本島で生活。その後故郷の愛知県に戻り約10年間、学習塾で子供達と接してきた。その後、心理学と経営学を学び、5年間の社員教育会社勤務を経て独立。現在経営コンサルタント、心理カウンセラーなど。
著書に『ひとりぼっちじゃないよ〜まなざしの島「ネィラ」をめぐる物語〜』がある。




先田光演
沖永良部民俗学