■榊原洋史 【アサギマダラの見た夢】
―回想録、奄美・沖縄への思いと軌跡―
vol.3 東京に咲いたユウナの花-IV
■劇「鷲の鳥(バシントゥイ)」を上演
「ゆうなの会」西部支部に所属した私は、学生の身分をいいことに、ほとんど毎日といってよいくらい、支部のマンションに入りびたっていた。
例会のない日でも、サンシンの練習や通信を作ったりで誰か居り、たんにヒマだという連中も夜になると集まってきた。そしておしゃべりをし、結局は、飲みに行こうという話になった。
サンシンを片手に飲み屋へ行き、歌って騒いだ。話も沖縄でのことが主だった。ヤマトンチュの私には耳新しいことが多く、また彼らのユーモアと感受性の豊かさにしばしば胸をつかれる思いをした。
支部近くの高円寺駅前には『清香』という沖縄料理の店があり、そこへもよく通った。八重山出身のママは当時、着物姿の似合う四十美人。あるとき私たちに八重山の祝い歌「鷲ん鳥(バシントゥイ)」をせがんだ。
せまい店内に第一声が響くと、ママは飲んだくれてフラフラしていたのに、とたんに背筋がしゃんと伸び、すっと扇が懐から出た。そして、一瞬の静寂の後、ゆらりと白い手とうなじが舞い出した。どこか遠くを見つめる瞳の先に、ふと陽にきらめく海の広がりを見たような気がした。
こうした仲間たちと語り、先のような場面に出会うたびに、私は島々への憧れを高めていった。
そんな中で「ゆうなの会」5周年記念の催しの話が進んでいた。そのメイン企画として、会の設立のきっかけとなった山口君事件を骨子に自分たちの問題をからめた芝居をつくり上演しようということになった。その名も「鷲ん鳥」と決まった。
夏のエイサー大会も、池袋と鶴見でやることになった。彫刻家、金城さんの大レリーフ「戦争と人間」(沖縄戦がテーマで全国を巡回していた)を背景にして盛大に催された。その勢いをかり、秋から本格的に上演の準備にとりかかった。
脚本は、創設メンバーの一人である城間さんが主に書き、私も一幕を担当した。
舞台は、島の祖母(オバー)と孫が草花遊びをするシーンから始まる。懐かしい沖縄の幻想的な一場面だ。
それが一転して、集団就職で上京した青年たちが、あまりにも違う職場待遇やいわれのない差別を受けている自分たちの現状を語り合う場面となる。そして、新聞をひろげ山口君事件を知る。
ついで事件のいきさつと、山口君が自殺するまでの心境が、死んだ本人によって語られる。あわせて照屋さんの亡霊も登場し、死に至るまでの思いを琉歌(沖縄の定型詩)のかたちで、切々と歌いあげる。
この琉歌は、照屋さんを演じた二十歳の女の子が、即興的に作ったものだが、真情がこもっていて本当に霊が乗り移ったかと思われるほどのものだった。
最後は、青年たちが、山口君の遺骨を抱いて、その両親のもとに届け、二度とこのようなことがないように仲間を集め、なんでも話し合える場をつくると誓う。
そして、八重山民謡「鷲ん鳥」とともに背後から大きな鳥の影が現れ、やがて海の彼方に消えていく。その姿を、みんなで見送るという場面で終わる。
ようやくリハーサルにこぎつけ、通しで舞台を見たときは、涙が流れて止まらなかった。みんな涙でクシャクシャになった顔を見合わせ、うなずき合った。
■シマへの旅立ち
その翌年の春、私は、手持ちの本を球陽書房の西平さんのもとに持ち込み、徳之島へ渡る資金を作った。とくにあてがあったわけではなかったが、ひたすら島でくらしたかったのだ。
西平さんは、本の代金のほかに「餞別だよ」と、熨斗袋に入った一万円をくださった。その情が、身にしみてうれしかった。
振り返ってみると、その2年近くにわたる「ゆうなの会」での仲間たちとのつきあいを通じて、社会的な評価が絶対だと思い込んでいた私の価値観は、根本から崩れていった。学歴社会でのまっとうな道を踏み外すまいと、綱の上を歩くような思いで生きてきた私に「肩書きや資格なんかなくても、生きていけるさ。大切なのは、生きているという実感を持って、自分の人生を歩めるかどうかさ」と、教えてくれた。
そうした生の実感を味わいたい一心で、島へ渡った。そして、徳之島で4年、沖縄で2年の歳月を過ごすことになる。その間も、オキナワについて考えていた。
幻想ではあっても、人の心に確固としてあるもの。そして、人と人とをつなぎ、そこへ向かって歩ましめるもの。ときにはニライカナイと呼ばれるもの。
きっとそれは、どこか遠くにあるものではなく「自分の心の海」のはてに浮かんでいるのであろう。そこから、ときおりスクの群れがやってくる。実りをもたらしに……。
それを感じとって自分の歩む先を決めていけたらと、願っている。
「ゆうなの会」は、県人会青年部と合体して今はない。このことは、所用で上京した際、偶然わかった。
ある雑誌をなにげなく見ていたら、むかし三味線(サンシン)愛好会で一緒だった新里愛蔵さんのお店(沖縄料理)が紹介されていた。そこで、探して立ち寄った。
店に入ると、ちょっと顔を見合わせていたが、すぐに「榊原さんね」という返事が、笑顔とともに返ってきた。15年の歳月が流れていたが、まったく関係ないような感じだった。
そこで「ゆうなの会」の消息を尋ねたら、沖縄の青年たちが集まるという店を教えてくれた。近くだったので、さっそく寄ってみた。
店に入って、すぐにおいてあった三味線が目に留まり、手に取って爪弾いていたら、カウンターに座って、こちらを見ている人がいる。目と目が合った瞬間、「榊原さんね!赤嶺です」と挨拶してきた。
私は、すぐには誰かわからなかったが、ようやく思い出した。当時、二十歳を迎えたばかりの青年だった。目の前にいるのは、35歳のオジサンだ。自分のことは棚に上げて「年をとったなあ」と、つい思ってしまった。
思い出話に花を咲かせている途中で、注文したヤキソバが出てきた。
彼は、私の前に置かれたヤキソバをじっと見て、言った。
「それ、一人で食べるつもりじゃないでしょうね」
そのつもりだった私は、ハッと気がついた。
そういえば、私たちは、どんなものでも分け合って食べていたのだ。べつに貧しかったからというわけではなく、それが当たり前の習慣だったからだ。確かに、そういう行為で、その場の気持ちを共有していた。
別れ際に彼は、感慨深げにポツリと言った。
「つきあう友達は変わっていくけど、一度集まった仲間は変わりませんよねえ」
私は、その言葉を聞いたとたん胸に熱いものが込み上げてきて涙があふれ出した。同じ時を共にした仲間は、その分かち合った思い出とともに死ぬまで記憶されるということなのだろう。心地好い涙であった。
この日を縁にして、また新たな再会がいくつか生まれた。なかでも西部支部のオジーこと上地哲と連絡がついたことで、なぜか「大琉球祭」の準備会パーティーに顔を出すことになり、そこで久しぶりにエイサーを見た。
使う太鼓は変わったが、その勇壮で華麗な響き、そして踊り手の顔の輝きは、昔のままだった。また胸が熱くなった。
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