■榊原洋史 【アサギマダラの見た夢】
―回想録、奄美・沖縄への思いと軌跡―
vol.4 占領下にあった奄美-I
■高砂親方と奄美
とにかく島で暮らしたいという一念から私は、確たる当てもなく徳之島へ向けて旅立った。港に降り立ったときには、その夜、泊まる当てもなかった。それでも、若さだけはあったので、「なんとかなるさ」と、島の土を踏みしめた。
そして、縁あって近々創刊するという地元新聞社オーナーと出会い、取材から編集までを担当することとなった。
新聞記者となった私は、ある日の夕方、バイクに乗って帰社しようとしていた。ちょうど井之川地区を通ったとき、ふと海岸の堤防上に、浴衣がけの大男が座っているのに気付いた。
むろん誰であるかは、すぐにわかった。その地区出身の高砂部屋親方(先代・朝潮)である。親方は、独り暮れなずむ波静かな島の海を眺めていた。
私は、少し不審な思いを抱きながら近づいていった。その頃、親方は相撲協会の巡業部長として、多忙な毎日を過ごしていたはずだったからである。
「親方、今回の帰郷の目的はなんですか」
「いや、とくにはない。シマの海が見たくなっただけさ」
そんな会話が、交わされた。穏やかな語調であった。
茜がかった薄暮のなか、親方の視線の先では、珊瑚礁にそって白波(島で潮花という)が、鮮やかな弧を描き、かすかに揺れていた。
だあぬ青年ぐわ 亀津ぬ町内
井之川生まれぬ 米川文敏
相撲ぬ美らさや 奄美大島ぬ 全国名売ちゃる
小結、関脇、大関なたむん
横綱待っちゅんど
「くるだんど節」
これは、昭和32年頃に流行った島唄である。
歌意は、「あのりっぱな青年は誰だろうか。あれは亀津の町内、井之川生まれの米川文敏だよ。彼の相撲は、なんて鮮やかなんだろう。その技で、奄美大島の名を全国に知らしめた。すでに小結、関脇、大関となった。さあ、次は横綱だ!期待しているぞ」というもの。
この時代、奄美は、島々を挙げての激しい請願運動のすえ、ようやく念願の本土復帰を果たしたばかりで、まだシマチャビ(離島苦)という言葉が切実に語られているころだった。
また、本土だけでなく隣の沖縄からも、いわれなき差別や偏見の目にさらされ、それに反発しながらも、言葉として他に誇るべきものを見いだせないつらさを味わっていた。
そうした二重の苦しみの中で、暁の光のごとく登場したのが「朝潮太郎」である。
その昇竜期、島びとは、夕刻になって相撲の実況放送が始まると、担いでいた砂糖キビの束を投げ出して、ラジオのある商店や学校へ駆けつけた。朝潮が長身をいかした得意の突っ張りで、ヤマトンチュ(本土人)の力士を一気に押し出す。その度にワアッーという歓声があがる。
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