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■榊原洋史 【アサギマダラの見た夢】


―回想録、奄美・沖縄への思いと軌跡―


vol.4 占領下にあった奄美-II

■「ガイコクジン」力士のなみだ
 高砂部屋が、高見山や小錦など、外国籍力士に初めて門戸を開いたところであることは周知の事実であるが、親方自身が広い意味でいうと「外国籍力士」の第一号であったことは、ほとんど知られていない。
 終戦後、奄美諸島はアメリカの委任統治下に置かれ、本土との交流を断たれた。そして、上からの指示で群島政府が組織され、その内部では独立の可能性(むろんアメリカの紐つきであるが)も検討し、国旗まで用意したほどであった。
 しかし、島々は耕地も少なく、そのうえ外地からの引き揚げ者を抱えて、経済的に成り立つはずもなかった。人々は、慢性的な飢餓状態に追い込まれた。それが、本土復帰運動を燃え上がらせ、同時に本土への密航船を繁盛させた。
 昭和23年の夏、背たけが高く眉太のいかつい顔でありながら、どことなく気弱げな青年が、そうした一隻のなかにいた。米川文敏である。
 その不安そうな様子も、当然であった。
 島を出たのは、青雲の志を抱いてといった格好のいい理由からではなく、飢えにさいなまれての結果にすぎなかったからだ。彼は、確かに力はあったが、食料も人の三倍は必要とした。
 密航船は、やがて淡路島についた。青年は、そこから神戸へ渡り、知り合いの土建業者の手伝いをしながら戦後初の大阪場所を待ち、高砂部屋へ入門した。そのとき、19歳だったという。
 一番苦しかったのは、この時期だ。相撲部屋なのに飯はどんぶり一杯の盛りきり、おかずは醤油のみといった状態だった。しかも稽古は現在とは比較にならないほど厳しく、長身が災いしてか足腰の弱い米川は、何度も堅い地面に叩きつけられた。土俵も道端に丸を書いただけのものだ。
 唯一の楽しみである風呂もドラムカン。だからフンドシかつぎの彼が入れるころには、泥水となり冷え切っていた。そこに、ぼろ雑巾をひたすように、背を丸め膝を抱え、身を縮めて沈める。
 当然のことながら金がない。それに、彼の巨体に見合った古着もあまり出回ってなかった。だから修行時代の数年間、上阪するときに来ていた進駐軍払い下げの菜っ葉服(作業服、モスグリーンであったため、こう呼ばれた)で過ごした。
 こうした肉体的なつらさには耐えられても、身近に何でも話せる人のいない悲しみは、耐え難いものだったという。
 とくに悲しかったのは、昭和25年、努力のかいあって、念願の十両昇進を果たしたときだ。歓喜、だが……。彼には後援者がいないため、化粧回しや締め込みの用意ができなかった。やむなく先代のお下がりで土俵入りをした。
 一世一代の晴れ舞台で味わった惨めな思いは、後年になっても忘れることはなかった。この一連のエピソードは、徳之島町の名誉町民に叙せられた際、親方みずから語ったものである。その十両昇進の話になったとき、親方は声をつまらせ、めがねをはずし目頭からにじむ涙をぬぐった。
 会場には、多くの島びとが詰めかけていたが、これまで秘せられていた親方の苦しみ悲しみに触れ、水を打ったような静寂が訪れた。
 きっと、このとき、あの時代に自ら味わった同じ思いを胸に甦らせ、唇をかみしめた人は、けっして少なくなかったはずである。
 さて、どうして後援者がいなかったのか。
 郷土の誇りである関取が誕生したのだから、普通なら黙っていても後援会の二つや三つはできて当たり前のところだ。
 理由は、もうおわかりだと思う。奄美は当時、まだ本土に復帰していなかったのである。
 したがって密入国者、米川文敏は、心ならずも兵庫県出身と詐称し、相撲をとっていた。
 それが、晴れて「鹿児島県大島郡出身」を名乗れるようになったのは、復興運動が実を結んだ昭和28年になってからであった。
 奇しくも同年、朝潮は関脇に昇進する。その場内アナウンスが、出身者や島でラジオに耳を傾ける人々の心を、どれほど奮い立たせたかは、先に述べた通りである。

 高砂親方が亡くなって、もうすぐ20年近くとなる。
 ひょうきんさで人気を集めたアサシオ君も、今では高砂親方だ。そういえば、彼が高砂部屋へ入ったのも、近畿大学相撲部の祈監督が奄美出身で、親方と仲が良かったためだった。 あのときは、かなり派手なスカウト合戦が展開された。しかし、大半は今でも下積み苦労の中から、本当に実力のある者だけが這い上がってくる。
 南海のハブと称され、ねばりのある相撲でと表をわかせた元幕内力士の旭道山(大島部屋)がそうだ。じつは、この力士についても思い出がある。
 島にいるとき、亀津に住んでいたのだが、ある夜、おばさんが独りでやっている煤けたような食堂へ入った。薄暗い電灯の下で焼酎を飲みながら、何の気なしに壁をみると、まだ少年といってもいい感じの若い力士の写真が掲げてあった。尋ねると、おばさんの子供で、中学を出て大島部屋に入門したばかりだという。
 ひょろっとした身体で、とても相撲の世界で生き残れるとは思えなかった。幕内力士になっても、最軽量であったほどだ。
 しかし、母親の子どもに寄せる熱い思いが、そこからジーンと伝わってきた。
 私は、ダメだろうと思いつつも、少しでも昇進すればいいけどなあと願い、店を出た。
 彼もまた早くに父を亡くし、中学時代から道路工事のアルバイトで生計を助けていたらしい。コンクリートの鉄筋を手で曲げていたそうだ。後に、弟も行事として角界入りしたが、修行のつらさに耐えかねて部屋から逃げ出そうとしたこともあったらしい。しかし、兄である旭道山から「俺たちには、逃げ帰るところなんかないんだ!」といさめられ、思いとどまったという。
 夜道を歩きながら「高砂親方も、こんな苦難の時代を思い出していたのだろうか」と、考えていたのを覚えている。このように朝潮をめぐる話には、島の共同体意識、そして、奄美の島々が歩んだ苦難の歴史と、切っても切れないものがある。

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榊原洋史
アサギマダラの見た夢

著者プロフィール
榊原 洋史 (さかきばら ひろし)

1955年生まれ。愛知県新城市出身。国学院大学文学部卒業。同大学院中退。大学院の途中で「南西諸島の神観念」をテーマにしたフィールドワークを志し、奄美諸島のひとつ徳之島に渡り、4年間を過ごす。次の2年間は沖縄本島で生活。その後故郷の愛知県に戻り約10年間、学習塾で子供達と接してきた。その後、心理学と経営学を学び、5年間の社員教育会社勤務を経て独立。現在経営コンサルタント、心理カウンセラーなど。
著書に『ひとりぼっちじゃないよ〜まなざしの島「ネィラ」をめぐる物語〜』がある。




先田光演
沖永良部民俗学