■榊原洋史 【アサギマダラの見た夢】
―回想録、奄美・沖縄への思いと軌跡―
vol.5 自主独立運動の波-I
■日本のガンジー
占領下にあったあまみについて、もう少し詳しく述べておきたい。
1950年当時、奄美諸島は本土との交流を完全に断ち切られ、奇妙な閉鎖社会を形成していた。その首都ともいうべき名瀬市(現在の奄美市名瀬)で、月刊誌『自由』が発行された。
代表兼編集者は奄美復帰運動の指導者で、本土のマスコミから「日本のガンジー」と呼ばれた泉芳朗(45歳)である。
この翌年8月、亜熱帯の太陽のもとで、5日間にも及ぶ断食祈願をおこなった。しかし、その願いもむなしく翌9月、サンフランシスコ講和条約が締結され、奄美諸島はアメリカの信託統治下に置かれることになった。島の人々は、その日から20日間、軒先に弔旗を掲げた。
泉芳朗は以後、本土復帰の日まで、民政府の弾圧にも屈せず、不服従のしるしとして幾度も断食に入った。復帰運動が頂点を迎えたときには、島々の各地で小学生から老人にまで、声高に叫ぶこともなく、飢餓地獄のただ中にありながら、さらに食を断ち、復帰を祈った。そこには島の切実な窮状があった。
よしや骨肉ここに枯れ果つるとも 八月の太陽は燦(さん)として今 天井にある
詩「断食悲願」
■飢餓地獄の底で
本土や外地からの引き揚げ者によって一挙に倍増した島の人口も1949年をピークとして、またしだいに減っていった。とはいっても本土へ渡ったわけではない。その道は、波荒き七島灘に引かれた北緯29度線によって阻まれていた。残されていたのは沖縄への道である。
ちょうどその頃、沖縄本島は、米軍基地の仮建設が始まり、軍作業を通して急速に経済的復興を遂げつつあった。その噂は、小指ほどの芋や蘇鉄を茹で飢えを凌いでいた人々の間を、瞬時のうちに駆けめぐった。
本土の人間の眼には、南島の生活は、緑に包まれ魚介類も豊富なので、飢えとは無縁の世界に見えるかもしれない。しかし、それは勝手な思い込みである。
島の多くが隆起珊瑚礁でできているため、水が乏しく田畑の適地が限られている。また夏場に葉物の野菜を作ったら害虫によって筋だけにされてしまう。ある程度、野菜が自給できるようになったのは、農薬が普及してからである。それに第一、薩摩藩の施策によって、島びとは、サトウキビしか作ることを許されていなかったという歴史的背景を持っている。
漁業の方は、イトマンと通称される沖縄漁民の専売特許だった。島びとは、船も釣り道具もなく、春の干潮時にアーサ(岩海苔)を採ったり、夜半に、磯の岩陰で眠っている小魚や蛸を探して銛で突いたりするくらいがせいぜいであった。そんな零細な食料採取手段ではとてもみんなの腹を満たすわけにはいかない。とくに人口が急増した当時は、そうだった。
だから人々は、競って蘇鉄を切り倒し、実はもちろんのこと、幹からも澱粉を取り、粥として飢えをいやした。だが、この粥は、今でも二度と見たくないという人がいるほどにまずく、あく抜き処理を充分にしないと中毒する危険性があった。また処理に数日かかったため、それを待ち切れずに食べ命を落とした人もずいぶんいた。
ようするに島の生活は、もとから自給自足ができなかったのである。そこへ人だけが増えてしまった悲惨さは、ご想像いただけよう。
畜生!俺達は蘇鉄実を食べるんだい! 詩「慕情」
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