■榊原洋史 【アサギマダラの見た夢】
―回想録、奄美・沖縄への思いと軌跡―
vol.5 自主独立運動の波-III
■苦しみの淵から
むろん、こうした救われようのない因果律を、島の心ある人々が手をこまねいて傍観しているは ずがない。奄美が経済的に自立できないなら、柵を取り払わなくてはならない。本土復帰運動の機 運が状況の深刻化を並行するように高まっていった。地の苦しみから生まれた草の根運動である。 まず、青年たちが立ち上がった。
1950年1月、奄美連合青年団は、全郡の団長会議を名瀬市で開き、復帰促進について話し合った 。その動きは、しばらくして軍政府の知るところとなり、とくに反社会または反米的な言動をした わけではないのに、青年十余名が検挙され、連合団長は軍事裁判にかけられ、重労働と罰金の刑に 処せられた。
それでも、いったん動き出した自主復権の流れは、止まらない。各地の小さな水脈を集め、翌年 2月に奄美大島日本復帰協議会が発足した。そこに集まった人々から推挙され、議長の席に着いた のが泉芳朗である。奇しくも、先にあげた沖縄タイムスの記事が出て、大島出身者に対する迫害が 激しくなっていく月であった。
■見えない首かせを
復帰協議会は、さっそく復帰請願署名運動を始め、約2ヶ月たらずで、じつに14歳以上の住民の 99%の署名を集めた。いかに住民が復帰を熱望していたかがわかる。裏返せば、それだけ生活の上 で、追い詰められていたということであろう。後の沖縄のように復帰か独立かといった議論をする 余地はなかった。本土復帰すなわち自主権の回復であったのである。
この署名をもとに協議会は、精力的に進駐軍総指令部や本土の政府へ復帰請願攻勢をかけた。な ぜなら目の前に講和条約の締結が控えていたからである。運動の盛り上がりが、最高潮に達したの が、「断食祈願」である。締結の1ヶ月前のことであった。泉議長が、名瀬市の高千穂神社境内で 断食に入ったのを知った住民も、それに続いた。8月4日には名瀬小学校の校庭に集まった市民1万 人が、かがり火をたき「復帰の歌」を歌いながら夜を徹した。
断食5日目、行動をともにした群集の前で、芳朗は、挨拶の代わりに詩「断食悲願」を読んだ。 人々は、鎮守の森に、静かに、そして底深く響く、その朗読に、声もなく聞き入った。
ここは北緯二十九度直下 奇妙不可解な人為の緯線が
のろわれた民族の死線に変わろうとしている
目に見えない首枷をつくろうとしている
たえがたい責苦の檻になろうとしている
詩「断食悲願」
■回天の軸は自主
なぜ芳朗は、ハンガーストライキなど一般的でなかった時代に、この手段を選んだのだろうか。
彼は、語る。
「断食運動は、アジア民族の伝統的な意思表示の手段であり、知性の許す限りにおいてのギリギ リの反対意思の表明である。吾々が、この運動をするのは、民族意思の表明以外の何物でもなく、 全世界の平和を愛する人々への呼びかけである」
復帰運動は、講和条約の辞典で信託統治を阻止するまでにはいたらなかったが、それを乗り越え ての不屈の闘争の結果、2年後の1953年12月25日、奄美群島は日本に返還された。
流離の日々は終わった 困難のうず潮は去った
詩「今ぞ祖国へ」
■芳朗の語るもの
泉芳朗は、徳之島の伊仙町面縄に生まれた。藩政府時代には、島の表玄関として栄え、それ以降 も富農が多く住む地区である。
鹿児島の師範学校を出て、奄美各地の小学校に勤務した後、上京して教員を勤めるかたわら、白 鳥省吾らの民衆詩派に属し、詩作に没頭する日々を送る。昭和10年代の国家主義にも染まることな く詩を通し、警鐘を鳴らし続けた。
しかし、健康を害したのと、仲間の相次ぐ右旋回に耐え切れず、同14年に帰郷した。
そして、徳之島の神之嶺小学校の校長や視学を経て、敗戦を迎える。
復帰運動に関する経緯は、これまでに述べてきたとおりである。この過程で病魔が再発し同34年 4月5日、永眠。享年54歳。
その障害は、一言でいうならばリベラリストとしての歩みだったといってよい。戦時中は、小学 校の校長だったにもかかわらず若い教師たちには「この戦争は負けるよ」と言い、奄美がアメリカ 軍に占領されたときには、本土復帰を叫び日の丸の旗を振った。
シマンチュ(島びと)らしく、熱い血を持つ行動の人でもあった。芳朗は、時代の岐路に立つた びに、自らの振り子を逆に振った。それによって、時流に押し流されまいとした。その依拠すると ころは、島びととしての感性と、それを客観的に自覚する理性(彼の言葉で言えば民族意識)であ った。表題の詩に、よく表されている。
ちなみに泉芳朗の人柄を物語るエピソードを紹介しておこう。
芳朗は、島唄と手踊りが大好きで、若いときから酔えば必ず「かんつめ」や「いきゅんにゃかな 」が口をついて出たという。市長を勤めた名瀬市時代にも、毎月一回は徳之島出身者が集まり、唄 い明かすのが恒例であった。
座談会を開いたり関係者を訪ねて話を聞いたりと、とにかく包容力があって、楽しい人だったと のこと。しかし、周囲にあわせて節を曲げることは、絶対になかったという。
いかなる外圧に も犯されない「自分らしさ」を大切にし、それを「民族と自由」または「人間の真理」という言葉 で語った。
戦後、アジアやアフリカの各地で起こった独立運動、さらに東欧諸国で、巻き起こった自主復権 の動きを見るとき、かつての日本の片隅の小さな島で起きた民衆運動と、まったく無縁な出来事と は思えない。
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