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■榊原洋史 【アサギマダラの見た夢】


―回想録、奄美・沖縄への思いと軌跡―


vol.8 いまを生きるということ-III

■虫の「五分の魂」はどこへ行くのか

 「私の願いといえば、できることなら肉体をもった私の、この世での生命が終わるとき、霊魂も一緒に消滅してくれるなら、どんなにうれしいことか、心からそれを願っている」
                              『夏日随想』
 敬虔なクリスチャンの生活で生まれ育ち、ご自身も「ある種の福音者的実践」をするほどの親交を持っていたが、二十歳半ばに意識的に離教したという。
 そのきっかけとなったのは、旧制中学4年の夏であった。
 家の濡れ縁で夕涼みをしていてヤブ蚊に刺され、いつものように、ハッシと手で打ち殺した。そのとき、ふっとある思いが頭にひらめいた。
「いま殺した蚊の霊魂は、どうなるのだ?蚊に霊魂はあるのか?あるとすれば、どうなるのだ?」
 蚊の命から始まった自問自答は、生き物全体における人間の位置にまで広がり、数日間、脳裏から離れなかった。
 これは、誰でも覚えがあるような素朴な疑問であるが、先生の場合は、人間に近い神を設定することによって成り立つ宗教に深い懐疑の念を抱くきっかけとなったという。
 むろん、そうした疑問に対して各宗教とも立派な教説を用意しているが、実際に「あの世」へ行って確かめ、戻った人はいない。
 だから、霊魂があるともないとも言えないが、自分は「なくて幸福、あっては大迷惑」という心境に現在はいると語っている。
 いま思えば、島で私が多く案内したのは墓地であった。当時の私のテーマが共同体と霊魂間であったので、気に入っていた葬地へお連れし、熱弁をふるった。それに異は唱えられなかったが、さぞかし苦笑なさっていたことであろう。
 当然のことながら、私はぜんぜん気がつかなかった。

■「無常」ということの積極的意味

 先に述べた岸本英夫も、棄教者であった。こうした知性にとっての真実は「いま・ここ」で息をしている自己の存在だけである。
 いうだけなら簡単であるが、そこまで思い切るには、相当の内面的葛藤を経なければならない。私たち日本人は、気軽に「無宗教です」などと答えてしまうが、世界の多くの人々にとっては、それこそ信じられない話だそうである。近代ヨーロッパにおいても、神の存在を否定するには、バタイユの『無神学大全』のような膨大な思索と検証が必要とされる。
 かつてイザヤ・ペンダサン(山本七平といわれる)は、そうした日本人の態度を「日本教徒であることに気付いていないだけだ」と喝破したが、それが、外から見た日本人への共通認識であり、正当な評価であろう。
 さて、ますます横道にそれそうなので、ジェイクの話に戻ろう。
 ジェイクは、妻に、命が有限であり、その与えられた命を十分に「生きないことの罪」を説いた。
 過去に引きずられ、未来に結果を求めて不安にかられて「いま・ここ」の現実に生きないことのツケは、死への恐怖となって表れる。ジェイクも、最初はそうであった。
 さて、いまの私に「あんたはどうなの?」と問われれば、「現在進行形です」と、わけのわからないことを言って、笑ってごまかすのがせいぜいである。
 しかし、これまでの自分と現在とを比較するとき、徐々にではあるが過去の束縛から着実に解き放たれてきている実感は、確かにある。
 ここまで書いてきて、とつぜん脈絡もなく思い浮かんだことがある。
 それは、鴨長明の「世に常なるものはなし」という言葉に代表される無常観の語調に対してだ。
 私は、これまで、そこに軽いあきらめのトーンを感じていたが、むしろ、そう達観することによって、「いま・ここ」に生きる積極性が生じてくるのではないかということだ。さらにいえば、それは、無常観そのものに最初から含まれているものなのかもしれない。

■星砂の海の履歴と悠久の時

 昭和53年の夏、大学院生となった私は、奄美大島から与那国島までの島々を一ヵ月半かけて南下する旅をおこなった。
 その最終地となった与那国は、とくに印象深かった。島の海は、まさに水族館であった。
 海底には、真っ白な星砂が敷きつめられている。その上に、日の光が微妙な波紋を描く。
 目の前には、ゆるやかな砂と珊瑚礁の傾斜が、青い闇の深みへと続く。耳を澄ますと、コリコリというかすかな音が聞こえる。
 やがて一匹のアオブダイが、ゆったりと岩陰から姿を現し、シュッと屁のような糞をひる。すると一粒、何かが海底へ沈んでいく。実は、これが星砂の正体なのだそうだ。
 ブダイの仲間は、珊瑚をかじり、石灰分は糞として排出する。その営みの繰り返しが、海底をおおい、島の海岸を縁取ったのであろう。それまでに、何千年の月日がたったのだろうか。
 ブダイは本来、群れをなして憂さに泳ぐ魚ではない。動きものんびりしている。
 だから、引き潮に乗りそこねたのか、潮だまりで独りボーとしていることがある。
 そんな昼下がり、海岸の突堤で島のじいさんたちと並んで座っていると、生きているんだなあと充実した気分が湧き上がってくる。
 ひとつの風景の中にボーとしたブダイがいて、ヒマそうに釣り糸をたらすじいさんたちがいて、私がいる。
 未来でも過去でもなく、「いま・ここ」にいる私……。至福のひと時であった。
 やがて、潮が満ちてきて潮だまりからブダイは去り、夕陽が周囲を茜色に染め上げ、じいさんも腰をあげる。

−完−

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榊原洋史
アサギマダラの見た夢

著者プロフィール
榊原 洋史 (さかきばら ひろし)

1955年生まれ。愛知県新城市出身。国学院大学文学部卒業。同大学院中退。大学院の途中で「南西諸島の神観念」をテーマにしたフィールドワークを志し、奄美諸島のひとつ徳之島に渡り、4年間を過ごす。次の2年間は沖縄本島で生活。その後故郷の愛知県に戻り約10年間、学習塾で子供達と接してきた。その後、心理学と経営学を学び、5年間の社員教育会社勤務を経て独立。現在経営コンサルタント、心理カウンセラーなど。
著書に『ひとりぼっちじゃないよ〜まなざしの島「ネィラ」をめぐる物語〜』がある。




先田光演
沖永良部民俗学