「えらぶ世の主」伝説
奄美諸島には数多くの英雄伝説が語り継がれてきました。古くは源為朝伝説があり、その後平家伝説が島々を伝わって南下していきました。
十五世紀になると、地元の豪族たち(地元ではアジといいます)の抗争の時代に入り、さらに、沖縄から琉球王朝の軍事勢力が北上してきて、奄美諸島も琉球王国の版図に入っていきました。この時期に、奄美大島と沖永良部島に双璧をなす、悲劇の豪族伝説が伝えられています。
沖永良部では、琉球王が使わした和睦の船を戦船と思い込んで自害した「ゆぬぬし」(「世之主」と漢字を当てています)、奄美大島の湯湾岳では、琉球王の討伐軍を前に「我知るは天のみ」と辞世の句を詠んで縊死した「ゆわんふーや」(「興湾大親」と漢字を当てます)の物語が、聞く人の涙を誘ってきました。その間には約100年の年月が流れていますが、島の人々はかつての歴史を、伝説のなかに語りこんできました。
えらぶ世の主の誕生は数奇な運命をたどっていました。
昔々、えらぶのニシミ(島の北西部の地区)に美しい娘がいました。伯母が神女役(ノロといいます)を勤めていたので、琉球の北山王国へ上納物を納めに行くことになり、姪もいっしょに連れて行きました。
美しい娘は国王の目に留まり、城で暮すことになりました。そして数ヵ月が過ぎると、娘は身籠り、島に帰ってお産することにしました。とある島の上陸しやすい湊に着きましたが、上陸ができません。今、島ではシニグ祭を行なっているので、不浄の女は入れることができないというのです。仕方なく、島を回って沖泊という湊に着きました。ここはニシミに近いのですが、高い崖がつづき、登るのにたいへん難儀します。それでもようやく、懐かしの我が家に辿り着きました。
しかし、父親は娘が不貞を犯したとして、家に入れてくれませんでした。そぼ降る小雨の中、小さな小屋を作り、そこで娘は無事に男の子を出産しました。そのときに産湯を沸かし、お粥を炊いた竈石は、今でも神石として、土地の人々が建立した小さな神社に祭られています。
産まれた子どもは日に日にたくましく成長し、7才になりました。母親から出生のいわれを聞き出した男の子は琉球に渡って、父親の王様に面会しました。王様は本当に我が子かどうか、水鏡の裁きを行ないました。井戸の水面に写る顔に王冠がかぶっているかどうかで、真実を判定する裁きです。井戸を3回廻った子どもの頭には、王冠がありました。
こうして王様の子どもとして認められた男の子は、17才になると沖永良部島を与えられて、島の主となりました。これがえらぶ世の主の伝説の始まりです。
伝説は、幾世代にも渡って語り継がれる間に、内容が変わっていくことがあります。この世の主伝説でも、多様な内容の話が語られています。
沖永良部を治めていた世の主に危機が訪れました。1416年、琉球では中山王国が勢力を伸ばし、北山王国を攻め滅ぼしてしまいました。父親の北山王国が滅ぼされたことで、世の主は小さな島の行く末を案じました。ときあたかも、多数の船がやってきました。世の主はこの船がえらぶを攻め取りに来た軍船だと勘違いしました。そして大国にかなわずと、島人を救うために、妃と嫡子ともども自害してしまいました。
これらの船は和睦の使いだったと言い伝えられています。早まった決断で最期を遂げた島主を、島の人々は手厚く葬りました。
600年後の今でも、世の主は島の守り神として世之主神社に祭られ、人々の尊崇を受けています。
文/先田光演