悲恋のカンツメ物語
昔むかし、奄美が薩摩の圧政を受けていた時代のこと。薩摩による黒糖の取り立はとても厳しく、貧しい人びとは年貢が不足すると豪農から借りて納めなければならなかった。返納できなかった人びとは、自分自身や子どもたちを家人(やんちゅ)として豪農へ身売りをするしか術がなかった。やんちゅとは奴隷のようなもので、一度やんちゅになると生涯をその家で暮らさねばならなかった。
今から約210年前。奄美大島の宇検村須古(うけんそん・すこ)部落の、カンツメという18〜19歳のかわいい娘が、隣の名柄(ながら)部落の豪農の家へ、やんちゅとして売られていった。カンツメは美人で賢く目立っていたので、やんちゅ仲間たちは妬んでいじめていた。奉公先の主人はそんな彼女に一目惚れし、想いを寄せていたので、いつも同情しかばっていた。
唄の上手なカンツメは、山の向こうの久慈(くじ)部落に住む、役場の書記で岩加那(いわかな)という三味線の上手な若者と恋仲になった。ふたりは一日の仕事が終わると、夜な夜な名柄と久慈の中間にある佐念山(さねんやま)で密会を重ね、将来を誓い合った。カンツメの美しさは際立ち、奉公先の主人はますます彼女への想いを募らせちょっかいを出したが、彼女は反発し続け、やんちゅ仲間からはますます憎まれた。
そんなある日、カンツメと岩加那が密かに逢引していることを知った主人とその妻は、カンツメを拷問し、全身火傷を負わせるなどしてせっかんした。 カンツメは絶望し苦しみに耐えられず、翌日いつものように焚き木採りに入った山から帰る途中、岩加那との逢引の場所へ行き、木に首をくくって自らの若い命を絶ってしまった。
岩加那はそんな事とは知らず、いつものように三味線を片手に佐念山に出かけた。そこにはカンツメが微笑みを浮かべ岩加那を待つように静かに座っており、二人はいつものように数曲を歌い合った。そしてカンツメは涙を浮べながら、「あかす夜や暮れて 汝きゃ夜や明けろ 果報の節あらば また見あわそ」(あの世の夜は暮れていく あなたの夜は明けていきます 機会があれば またお会いしたいものです)と唄い終わると、彼女の姿はスーッと夜の暗闇へ消えていった。驚いて辺りを見回した岩加那は、カンツメが死んでいるのを発見し、もっと早くに身受けしておけばよかったと悲しみに暮れた。 その後、名柄の主人夫婦は亡霊にとりつかれ変死、さらに代々まで呪い殺され、豪農の家は絶えた。

それから数年後、名柄の歌名人、奥宮嘉吉がこのカンツメの話を歌にした。メロディーは「草なぎ節」という、生前カンツメがよく歌っていたものだ。この「カンツメ節」が、奄美の貧しい村村で共感を得、奄美全体に広がり、涙を誘った。名柄部落でカンツメの歌を唄うと呪われるといわれ、禁忌とされているが、名柄にカンツメの子孫がいたので部落の人たちが気を遣って歌わなかったとも言われる。
岩加那とカンツメの逢引の場所は、カンツメの死後、草も生えず村人たちに恐れられた。カンツメの墓は須古部落にあり、サンゴ石に囲まれている。