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■先田光演 【沖永良部民俗学】


vol.1 「えらぶ」という島

私の住んでいる島は漢字で「沖永良部」と書き、読み方は「おきのえらぶ」といいます。「おきえらぶ」という人もいますが、公称としては「の」をつけて呼びます。方言ではイラブといっています。同じ言い方の島が南西諸島に3島あることをご存知でしょうか。一つは屋久島の隣にある口永良部(くちのえらぶ・面積約38平方キロメートル・人口約150人)です。もう一つは沖縄県の伊良部(いらぶ・面積約29平方キロメートル・人口約7,000人)です。この沖縄県の伊良部の方が方言の発音としては同じになります。
共通語の「え」は方言の「い」に変化するという原則が南西諸島には見られます。この原則に従うと「えらぶ」が「いらぶ」になったと考えられますが、その逆かも知れません。いずれにしても「えらぶ」や「いらぶ」の語源は何でしょうか。いまだもって解明されていません。どなたかお教えいただけないでしょうか。 沖永良部島は面積約93平方キロメートル・人口約15,000人の隆起珊瑚礁の島です。この亜熱帯の島は珊瑚礁に取り囲まれて、灼熱の太陽と荒れ狂う台風の襲来地帯です。しかし、ここに住んでいる人たちは、自分たちの島が一番住みやすく、豊かな島だと自慢します。「えらぶ」は「選んでも選ばれない」一番良い島という意味だと、思い込んでいる人も最近多くなってきました。自分の故郷をこよなく愛することはいいことです。特に、島を離れて他の土地で一心に働いている人たちの心の拠り所は、故郷にあるからです。「えらぶ」出身者の人たちは、特にその感があります。
でもね、自慢しすぎると却って自分たちの心が貧しくなりますよ、と忠告したくなります。だから「えらぶ」の語源の解明は緊急な課題だと、一人考えています。
さて、「えらぶ」や「いらぶ」がいつごろ歴史に登場してきたのか、ご説明いたしましょう。
時は、今から1200年前。場所は現在の福岡県太宰府市。南の島から大勢の人々がやってきました。珍しい亜熱帯の産物が、大和朝廷への貢ぎ物として運ばれてきました。螺鈿細工の原料として使われる夜光貝の殻、その夜光貝や各種の貝の実(軟体部)を干した俵物、調度品の箱を作るための赤木の木材などです。
この献上品には木製の荷札木簡が付けられていました。そして、1200年後その木簡が発掘されました。奄美大島と書かれた木簡と「伊藍嶋」と書かれた2枚の木簡でした。この「伊藍嶋」が、どうも「いらぶ」や「えらぶ」らしいのです。その可能性は高いと思いますが、果たして「口永良部」なのか「沖永良部」なのか、または「伊良部」なのか、研究者の間でも議論されています。大方、沖永良部に比定されています。字面からは「伊良部」になりますが、あまりにも遠いということです。
さらに時代が下り、1300年のころ、鎌倉幕府の御家人として薩摩半島に勢力を持っていた千竈(ちかま)氏が、その子供たちに所領を譲り渡した文書に「ゑらふのしま」が、次男の所領として記されています。この「ゑらふのしま」も沖永良部に当てられています。
1471年、朝鮮で作成された琉球国の地図には「恵羅武」と「小崎恵羅武」の島の名称が記されています。この「小崎恵羅武」は「おきえらぶ」と読むことができます。当時から「えらぶ」と「おきえらぶ」がはっきり書き分けられていたとなると、歴史に登場した「伊藍嶋」や「ゑらふのしま」は口永良部の可能性が高いと考えることができます。いかがでしょうか。




先田光演
沖永良部民俗学

著者プロフィール
先田 光演 (さきた みつのぶ)

昭和17年生まれ、和泊町国頭(クニガミ)出身。
鹿児島県内の小中学校に勤務。和泊中学校長で定年退職。現在、和泊町歴史民俗資料館臨時職員。沖永良部郷土研究会を仲間と結成し、会長に就く。年4回の例会と、会報『えらぶせりょさ』を年4回発行している。




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